第一章<大器晩成と言われ>
閏年というのは4年に一度訪れるが、その年は暦上2月29日が存在する。
1972年3月1日午前1時生まれ、とされているが実際のところは2月29日であったがそれだと今後の人生誕生日が4年に一度しかない、という配慮から病院側としても3月1日午前一時にしよう、と配慮がされた。まだ昭和47年日本の田舎ではその様な四角四面を丸く収める土壌があった。
生まれた時は未熟児であり、そのまま保育器に入れられた。後に母親から「この子は普通に生きてもらえばそれだけで満足だから多くは望まない、でいた」と告げられた。
名前は父親がつけたのか祖母がつけたのかハッキリ聞かされた事はないが、祖母から「男として益荒男の道を歩んで欲しい」と命名の由来を聞いたことがある。であるならばこの名前
でない漢字にすべきではなかったかと子供ながらにモヤモヤしていた。
浅間正武(まさたけ)という名前、本人は自分のこの名前を気に入ってはいなかった。せめて親がセンスを持ち合わせていて、「正」一文字で「ショウ」とでも名付けてくれたらどれだけ格好良かったか、と残念な気持ちで過ごしていく。しかし3兄弟の名前は昂尚(あきなお)、信康(のぶやす)と皆戦国武将か和尚の名前の様であり、親というか父と祖母はその様な威厳を強く持っている存在であった。
山国長信州のとある村に3兄弟の次男坊として生まれた。いわゆる江戸時代であれば庄屋のような農家で近隣に田畑を多く持っていたが、戦後の農地解放で多くの田畑をそれまで小作人としていた家々に渡していったようだ。
このことが後々まで「我が家は豪農であり地域でも優秀な家系、他の人は分け与えられた土地で生活している」という時代遅れな虚栄心を持ち続ける所以であった。
祖父は日中戦争や南方戦線に出征したが退役してから農業一筋でやってきたが、息子である晴一(正武の父)が20代の頃に脳溢血で急逝した。正武ふくめ3兄弟は皆祖父を知らない。祖母と父母6人家族で育った。
山間地域の村で山の中というより山を登った台地に集落があった。その村は人口6000人で小学校中学校も一つしかない、信号が一つ設置されたことで村の回覧になるほど田舎であった。
江戸時代後半に小諸藩から開拓の事業でその台地に田畑を作る為開墾したのだろう。何せ台地なので学校に通うにも買い物に行くにもいちいち峠といっていい程の山坂道を上り下りしなければならない過酷な集落で、台地なので標高も高く660メートルはあり、さえぎる山がないので風も強く、冬などは本当に寒い場所であった。
しかし景色はさえぎるモノがないので東に浅間山、南に蓼科山を一望でき家の前からは浅間山の稜線が綺麗に見えた。
この寒風吹きすさぶ台地で育った正武はほっぺたがしもやけ症状で赤くなっていて年中リンゴほっぺという顔であった。正武の幼少期の写真は丸々としており、これは未熟児で生まれた反動で母親が「たくさん食べさせ大きくさせたい」という想いからだったようだ。
赤いほっぺのまんまる顔、これが物心ついてから正武の外見へのコンプレックスとして悩みの種だった。
正武の父は一応会社勤めをしながら兼業でそれまでの祖父が維持していた田畑で農業を営んでいた。当時は兼業農家が主流となっていたが多くは2,3枚の田んぼをやっている小規模農家だが正武の父清一田んぼ枚数で言うと10枚、1ヘクタール以上もあり、畑も同様な規模を持っていた。平日に母がやれることをやって、土曜の午後と日曜日に家族総出で農作業をやっていた。
正武はこれがとても嫌だった。近所に年が一緒の幼馴染がいて兄弟同然に遊んでいた雄一と遊べないのだ。雄一も同じ浅間姓でルーツは一緒なのだろう。しかし雄一の家はわずかな田んぼしかなく、父母共働きの家庭で休みの日をいえば家族で出かけたりしていた。
「この前どこどこで行って何を食べた」という話をよく聞かされており、なぜ自分は学校の無い休みの日にも田畑に連れていかれ日没まで農作業をさせられるのか、自分の生い立ちを恨んだりしていた。
父清一は自身がそうだった様に三人息子を農作業の重要な人足としてとらえていた様だ。特に日曜日の夕方暗くなるまで仕事をしていて帰ってきても日曜の夕方やっている定番のアニメさえ終わっている事が多く、次の日からまた一週間が始まるかと思うと本当に泣きそうなくらい切なかった。そして周りが着飾って遊びに行くのに自分は泥にまみれて田んぼ仕事をしている事がなんともみじめに感じていた。
田んぼのシーズン以外は畑で薬用人参やイモを作っていた。
大人になってから分かったが、父清一は会社での給与以外に兼業の農家収入があったからこそ息子3人の大学までの学費が賄えたのだろう。父清一は昔ながらの亭主関白であり、息子たちにも厳しく一家のお殿様の様な振舞いだった。母もよく怒鳴り散らされていて、盆と正月に母の実家に帰省する際に子供達も連れて一泊するのが楽しみであったが、その前後は決まって機嫌が悪かった。正武の記憶に鮮明に焼き付いているのは、母の帰省先から帰った時に、父清一の妹一家が訪ねて来ており、お茶出しなどを祖母のきいいがやっていたことに父が激高し、母を殴っていた事だった。
許せない父だ、と子供ながらに思った。正武は父清一に話をする時にいつも緊張していた。それは恐怖からだ。よく父親に話しかける時に「先生」と言い間違えてしまっていた。
これは同じく学校での怖い存在「先生」と正武の脳内で整理されていたからであろう。
3つ上の兄昂尚は幼いころから近所での「神童」扱いされてきた優等生タイプであった。
しかし意地悪な面があり、正武はよく兄からいじめられて泣かされていた。そのいじめもしつこくいつまでも続くので、正武は最終的に激高してモノを壊したり、素手ではかなわない兄なので凶器を持って暴れたりした。そうでもしないといじめは収まらなかった。
息子3人の写真アルバムがそれぞれあったが、正武の写真はやはり長男に比べて少なかった。それはうっすらと幼いながらにも正武の心の中に親から受ける愛情の差とも感じ取っていた。
・・でもこの程度でいいわ。
と正武は心の中で一人納まりをつけていた。
二つの写真がずっと記憶に残っている。
一つは正武のアルバムにあった幼い正武が兄の乗る三輪車につかまり立ちをしている写真。
その時に兄の手を見ると、弟の正武の三輪車を握っている手を放そうとしている。
正武はそれを見るたびに、兄はそうやって手をほどき弟の転ぶ姿を見ていたんだなと感じていた。
もう一つは弟信康の写真で幼い信康が裸でたらい桶の中に入り体を洗ってもらっている写真。この写真の横に同じくカメラ目線で小さなグローブをはめてキャッチャーの姿勢でこちらを見ている正武の姿だ。しかしこの正武は体半分しか写っていない。
これを見た時にやはり正武は「生まれたての弟が主役になってしまうのは仕方ないな」と自分自身に言い聞かせていたが、やはり内心寂しさを感じていた。
兄は賢く優秀で、弟は一番幼いのでかわいがられ真ん中の正武は自分自身でも家の中では控えめになりあまり言葉も少なくしていた。しかし冷静に周囲を俯瞰で見ていたし、それがここの生活での処世術だと感じていた。
そんな姿を見て、周りに父清一が「こいつは大器晩成タイプだから」と紹介していた。
それを聞いて、正武は自分自身にもあまり自信が持てずいたが、心のどこかに「子供ながらにあまり期待されてないな、今に見てろ」と思っていた。
家での生活はとても気が休める場所ではなく、自分を出せる余地もなかった。
学校にいって友達と遊んだりする時の方が自分を解放出来て、正武は意外と学校は嫌いではなかった。友達とも仲良く、近所の子供たちを集めて、その度に今日は何をやって遊ぶかを考えていくのが好きだった。
友人関係は豊かで、幼馴染の雄一とは兄弟同然の付き合いであったし、他にも地区で同学年で直也や憲一といった仲良く遊ぶ友達がいた。
ある日、どうやら小学校から正武の家に手紙が届いた。内容はなんと特別学級への進言のものだった。親は驚愕して、すぐ父が学校に真意を問い合わせたが、どうやらそれは他の児童に向けた特別学級への進言のプリントを裏紙として使ったお知らせだったらしい。なんともお粗末な教員のミスだが、親は若干正武の事に関しては可能性は覚悟をした、とも聞いた。こんな事も含め正武自身は「今は出来損ないだが、いずれ大器晩成なのだから、今に見ていろよ」という気持ちを内に秘めていた。

